「 民衆が勝利した日本最大規模の一揆・三閉伊一揆とは 」

 

三陸海岸の夏の旬、生ウニを味わいながら三閉伊一揆の舞台となった田野畑村へ。

 

【 民衆が勝利した日本最大規模の一揆・三閉伊一揆とは 】

 

《 かつての陸の孤島、田野畑村(たのはたむら) 》

かつては陸の孤島といわれた岩手県・田野畑村。北三陸のリアス式海岸沿いに位置し、断崖や深い渓谷が多く、標高100〜200mの丘陵地に囲まれた村である。1972年に国道45号が全線開通し村へのアクセスが改善。1984年・2006年には大きな2つのアーチ橋も開通し交通の便が飛躍的に向上した。それ以前は主要道路が未整備で盛岡市から最も時間のかかる場所とされていた。村に入るには「思案坂」「辞職坂」と呼ばれる急峻な坂を越える必要があり、役人や教師が赴任をためらうほどの難所だったという。

 

《 田野畑村民俗資料館 》

やっと訪ねる機会に恵まれこのたび田野畑村民俗資料館へ。田野畑村を中心に幕末期の三陸沿岸地域で勃発した一揆で、民衆側が完全勝利したという日本最大規模の百姓一揆「 三閉伊一揆(さんへい一揆)」についての資料を中心に収蔵した全国でも珍しい資料館。「さんへい」とは人名ではなく、三陸沿岸を中心とした地名の三閉伊(北閉伊郡、東閉伊郡、南閉伊郡の総称)を指す。

江戸時代の百姓一揆は大罪であり、多くの場合、幕府や藩の武力により鎮圧され、失敗に終わり、首謀者は厳しく処罰されたが、三閉伊一揆はなぜ完全勝利し成功したのだろうか。

周囲の田野畑村の山並みに呼応し曲線的に隆起する大屋根の資料館。館内にはかつての三陸沿岸の漁村の住居の建築様式であるまさ板葺きの民家を再現。天井には一揆の辿った道、壁は田野畑村の海岸にある鵜の巣断崖や北山崎などの断崖絶壁をイメージした形状。奥に進むにつれ、階段を上がる館内の仕様は一揆が仙台藩領内にたどり着くまでの幾多の厳しい峠越えをイメージしたものだろう。三閉伊一揆を物語風にした地元の方が製作した切り絵の映像も素晴らしい。

現在の人口約2900人ほどの田野畑村にあって、町村営の資料館としては驚くほど充実した展示内容の素晴らしい資料館ではないだろうか。館のパンフレットの文章も熱い。「この建物は博物館というよりも、先祖の人々の気持ちに出会う、ふれあいの場なのだ。歴史上の人物の話ではなくて、一緒に語らいながら歩くような風情である。林の木々のように小柱が立ち、道を上下する。何処にいても全体の気配が感じられ、前に進む人も後ろから続く人も、常に見え隠れしている。ちょうど一揆の人々が小◯(困る)の旗を手に小径を辿ったときのように。この道は心して進むのだ。ふり返れば、一揆の道と三陸海岸が輝いている。」

 

《 三閉伊一揆 》

時はペリー率いる黒船来航のころ。連続する大凶作のなか盛岡藩(南部藩)の悪政、重税により苦しむ民衆がおこした1度目の一揆は12,000人規模、2度目は16,000人規模。2度目の一揆は盛岡藩と仙台藩の公約とさせるため16,000人が隣の仙台領を目指しての大移動となる。

一揆の行動は2人の指導者により計画され、民衆はその指示に従っていた。字の読めない民もいることから「小◯(=困る)」として、民衆の窮状を記号化した旗を掲げ、隊列を組み整然とした団体行動をとり仙台藩領内に押し出し要求を提出。一揆の要求はとても大胆で「盛岡藩主を前の藩主に変えて欲しい。我ら民を仙台領民にしてほしい。我らの住む土地を幕府直轄地か仙台領地にしてほしい。役人が多いから減らしてほしい。御用金の他臨時税が多すぎる。」など、仙台藩に政治的要求3ヶ条、具体的要求49ヶ条を提出。従来の一揆よりもとても政治性の高い要求であった。交渉は5ヶ月間にも及んだという。盛岡藩よりも格が上であった仙台藩を味方につけ願いを要求したことで、「藩主を変えてほしい」以外、多くの要求を盛岡藩に認めさせることに成功すると共に、一揆の指導者は直接的な処分も一切されず、江戸時代の封建社会のなかにありながら民衆が支配権力に勝利するという画期的な一揆であった。

 

三閉伊一揆があまり知られていないのは、2度目の一揆が歴史的に有名な黒船来航とちょうど重なっていることや、歴史は権利者中心に語られることが一般的なため、際立ってドラマチックな劇的な内容でない限り、一揆の歴史やその指導者の記憶は発生地域だけの記憶になりがちなのかもしれない。

ボランティア解説員の方のお話しとともに2時間ほど滞在。とても学びになった。

 

 

 

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