「道の奥、みちのくの本当の境界とは」2025/03/17
福島県白河市周辺を見てまわりたいとおもい旅にでました。
「道の奥、みちのくの本当の境界とは」
白河の関跡。
古く、東北地方を総括する呼び方は何であったか。大和政権サイドでは「道奥」ととらえ、「道のつき果てるその奥」の意味であり、さらに「東山道という行政地域の奥」という表現である。「道の奥→みちのく」という表現には、「これより以北は国家の統治の及ばない地域である化外の地」という、都の宮廷人にとって軽蔑と、怖れと、遠隔地の異国の文物に憧れを抱く心境がこめられていたという。
白河の関は、奈良時代から平安時代にかけて、京都から陸奥国(むつのくに / 白河から北)に通ずる旧東山道の要衝として設けられ関門であり砦。当初は大和政権が陸奥国の蝦夷に対抗するために設置した前線基地であったが、その後に大和政権の勢力がさらに北進したことで軍事的意義は小さくなり、陸奥国との国境検問所としての役割が残ったという。その後、白河の関は衰退し長らく不明となっていたが、江戸時代の白河藩主 松平定信の調査により現在の地が白河関であると断定し、「古関蹟(こかんせき)」の碑を建てたという。テレビなどで一般的に目にする「史跡 白河関跡」の大きな石碑よりも、その後方にある松平定信が建てた「古関蹟」の碑を見るほうが歴史的価値はあると思います。
みちのくの本当の境界、追分の明神。
白河の関からのびる一本道、旧東山道の街道を南に3キロほど進むと福島県白河市と栃木県那須町の県境になり、ここに「追分の明神」がある。そうです、ここが奈良時代から平安時代にかけての「みちのくの本当の境界」であり「東北と関東の境界」である。古代から現在まで変わらず境界であり、現在でも福島県と栃木県の県境である。
追分とは道が二つに別れる場所をさす言葉であり、そこから街道の分岐点と意味するようになり、全国各地の街道に地名として残る言葉である。街道から追分の明神への階段をあがり鳥居から街道を見下すと、向こう側に「これより北 白川領」の石柱がある。そして興味深いのはこの部分だけ道幅が極端に狭く普通車1台がやっと通れる程度であり、往時の街道の雰囲気を存分に残していると思います。現在は閑散として通行するクルマもまばらですが、征夷大将軍坂上田村麻呂や源義経もここを通り、源頼朝が奥州藤原氏を討つための軍勢もここを通ったと思うと、しばらく眺めてしまった。当時、ここを通る文化人はこの場所で良い一句詠まなければ一流の文化人の仲間入りが出来なかった超映えスポットでもあったようです。
江戸時代の境界、境の明神。
江戸時代になるとそれまでの街道であった旧東山道はすたれてしまい、かわりに旧奥州街道(現在の国道294号)が江戸時代になり整備された。現在は道幅も広く比較的交通量も多くトラックも通る道路である。福島県白河市と栃木県那須町の県境をまたぎ、福島側と栃木側それぞれに神社(境の明神)が建てられいます。ここも昔から境界であり、現在でも変わらずそのまま福島県と栃木県の県境である。こちらにも「これより北 白川領」の石柱があり、江戸時代の人々の往来はこの街道であり、東北諸藩の参勤交代などの交通・連絡に用いられ、白河小峰城にもまっすぐ続いている街道である。旅人はこの境の明神で旅の安全を願ったのであろう。