「 登米町と北上川の舟運 」

 

 

宮城県登米市周辺と、登米を流れる北上川を見てまわりたいとおもい旅にでました。(3/2)

 

「 登米町と北上川の舟運 」

 

北上川は岩手県北部から発し、岩手県の中央を北から南に流れ、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市、宮城県登米市を流れ石巻市で太平洋に注ぐ東北地方最大の河川で、全国では4番目の規模であるという。

米穀や物や人を運んだ北上川の舟運の全盛期は江戸時代〜明治時代の初め頃までで、仙台藩領内の北上川には51箇所もの「河岸」や「舟場」と言われる河港があったようです。

しかし、明治24年に東北本線が青森まで開通すると、北上川舟運は一気に衰退し姿を消すことになる。

米どころとして知られる宮城県北部の登米市周辺は現在は広大な水田地帯になっているが、江戸時代以前は湿地帯だったようです。関ヶ原の戦いの後、伊達政宗・忠宗の時代に仙台藩により米穀の増収を図るための政策として、新田開発など原野開墾や沼や沢の干拓が行われたそうです。そうして米が沢山穫れるようになると北上川から運河と海を使い廻船問屋が米穀を運び、江戸へと米が登っていく様子から「登米」の由来になったとか。当時、江戸の米の3分の1をまかなっていたようです。登米は現在では仙台牛の産地としても知られている。

北上川の舟運による米穀の集散地として大いに栄えた登米市登米町は「とめし とよままち」と読むが、登米町は北上川に沿ってつくられた城下町で、かつては寺池城があったようだ。町内には現在でも明治時代以降に建てられた洋館も多く残っており、小さな町ながら老舗のうなぎ屋や味噌醤油屋なども営業している。

現在は堤防が高く町内からは北上川の川面は見えないが、かつては目の前に川岸が広がり、上りの舟と下りの舟が行き交い、荷を積み替えたりと、相当な賑わいだったことだろう。江戸から東北に下る舟には、江戸の商人から仕入れた瀬戸焼などの土瓶や茶碗など様々な物が積まれ運ばれたようです。現在、北上川の舟運を示す歴史的な痕跡はわずかに残るばかりで、往時の賑わいの様子をうかがい知ることはほとんどできません。

 

 

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