薩摩半島最南端の小さな港町、山川。

 

山川港と山川町。

鹿児島県 指宿市 山川町。

薩摩半島の最南端の小さな港町。今回の九州旅でここに立ち寄ってみたいと思っていました。観光地ではない山川町(やまがわちょう)ですが、土地の成り立ち・歴史・沖縄とのつながりや独自の文化など、この小さな町にギュッと詰まっているとても興味深い町である。現在はオクラや鰹節の生産が主な産業の静かな港町。

指宿地方は火山銀座といわれるほどとても多くの火山地形が残っている。そもそも指宿市全体が巨大なカルデラの中にある市だと言うから驚きだ。さらにその中に九州最大のカルデラ湖である池田湖があり、薩摩富士 開聞岳や砂むし温泉も火山からの贈り物です。ここ山川港も噴火で吹き飛んでできた火口の窪地に海水が入り込みそのまま港になったという。そのため三方を切り立った山に囲まれ風の影響が少なく、水深は約40メールとかなり深いために大型船が寄港できる天然の良港となり、九州の南端にあるため古くから国際貿易港としてにぎわっていた。

大航海時代(日本は戦国時代)にポルトガルの貿易商人がここ山川に半年ほど滞在し、帰国後に山川での暮らしぶりを記録した書物が日本のことを西洋に伝えた初めての見聞記となる。初めて西洋諸国に紹介された日本は、ここ山川であった。その3年後、見聞記がきっかけとなりフランシスコ・ザビエルがやって来て、はじめて日本の地を踏んだのも山川なのだとか。山川の暮らしぶりの記録がザビエル来日のきっかけとなった。

豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した1592年に始まった文禄・慶長の役では100余の軍船が山川港からも出航。1609年の薩摩 島津による琉球侵攻も多くの軍船が山川港から出航した。

その後、江戸時代に幕府が鎖国を進める中、山川港は琉球国との貿易が認められた日本唯一の港だった。当時とても貴重だった黒糖を琉球から山川港に集め独占的に販売したことで財政難だった薩摩藩を一気に立て直し、その後の幕末明治維新の主役となってゆく。1705年に琉球からサツマイモの苗を持ち帰り伝えたのも山川の漁師だった。栽培方法を近隣の村に広め飢餓などの災害にも強い食料として瞬く間に広がり多く人々を救ったのだとか。現在そのサツマイモは芋焼酎の原料となり日本全国の多くの酒呑たちの心を救っている。

山川と琉球との結びつきは強く、その一つが沖縄で多く見られる石塔である石敢當が山川の町を歩くと多く見つけることができる。沖縄では「いしがんとう」山川では「せっかんとう」と言われる。もとは中国の考え方だが、悪霊が家の敷地内に入るのを防ぐと信じられT字路や道の突き当たりに置かれている。江戸時代に石敢當のような様々な琉球の文化が山川に根づいた。

画像の石敢當や石壁が淡い黄色をしているが、火山という地の利があるのだろう、これは山川でしか採れない山川石である。見た目が美しく、ノコギリで切れるほど柔らかいが風化に強いため、石垣や墓石に用いられた。江戸時代には島津家の歴代当主夫妻の墓石に用いられ特別な石材であったことがわかる。また、朝鮮半島から渡来後の沈壽官窯の最初期の白土もここ山川で発見され使用されたのだという。

 

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