沖縄の復興の始まりは器をつくることからであった。

 

沖縄戦の空襲では那覇の9割が壊滅的な被害にあったが、

沖縄で古くから窯場のあった壺屋地区は奇跡的に被害を免れ、

窯元の何か所かが登り窯とともに焼け残った。

 

沖縄の住民の人々は戦後すぐに米軍の収容所に押し込められ、

そこで不便な暮らしをしていたが徐々に解放されていく。

米軍から住民への食べ物の配給はあったが、しかし、食器がなかった。

町は焼け野原だったので器など無かったのだ。

 

戦後、沖縄の人々の器をまかなうため、米軍は壺屋地区を那覇でいち早く住民に開放。

焼きものをつくる陶工たちは戦争中、沖縄北部などに避難していたが、

1945年11月に約130人ほどの陶工たちが陶器製造産業先遣隊として壺屋に戻る。

この陶工のなかには、のちに人間国宝となる金城次郎(当時33歳ぐらい)もいたようだ。

器づくりとなる材料は、土は読谷村や恩納村付近、透明釉の材料となるもみ殻などは中北部、

薪はヤンバルから運んだようだ。

 

戦争の被害を奇跡的に免れた壺屋の登り窯を利用し、終戦の4ケ月後にはまた器づくりが始まり、

同時に町づくりの復興も始まる。

終戦後の沖縄の解放と復興は、古くから窯場のあった壺屋から始まり、

沖縄の復興の始まりは器をつくることからであった。

 

 

 

 

 

#やちむん #ヤチムン

 

 

過去のブログはこちら

PAGETOPPAGETOP