「 旧海軍司令部壕 」2026/02/10
「 旧海軍司令部壕 」
はじめて訪れました。
今回の旅で窯元めぐり以外で立ち寄ることができてよかった場所のひとつです。
施設の中に入る前は写真を撮るつもりはなかったのですが、この壕でのことが一人でも多くの人に知ってもらえたらよいなと思いました。施設のHPやパンフレットには、オブラートに包まれ何も記述はないのですが、実際にはこれほど多数の兵士が過酷な状況で亡くなった場所なのかと驚きました。
この壕は太平洋戦争末期の沖縄戦において、日本海軍の司令部として使われた地下陣地です。終戦後、壕内からは2300名以上の兵士の遺骨が収集されましたがいまだ全容は不明だという。約4000名もの兵士が亡くなったとも言われ、その多くが自決だったという。包囲され生き埋めにされるのか、いよいよ最期の時をむかえた時に、生き残った人も少なく地下壕という限られた空間ゆえ、最期は壕の中で何があったのか分からないということなのか。
1944年、この壕は小禄飛行場(現在の那覇空港)を米軍の攻撃から守るため飛行場を見下ろす高台の地下20mに掘られました。当時の坑道の長さは450mあったといわれており、現在300mが公開されています。4ヶ月間をかけ3000名の兵士によりツルハシやクワを使い全て手作業で掘った跡、手榴弾で自決した弾痕跡、大田實司令官が壁に書き残した文字など、当時の状況を今に伝えています。
1945年6月。戦闘が激化し壕内には4000名もの兵士が集まり、坑道は満員電車のような状態になり多くの兵士は立ったまま睡眠をとる有様であったという。兵士達は当初、壕の外にでて排泄をしていたが、戦闘が激化し外に出ることが困難となり、やむなく壕の中で桶などに排泄するようになった。これにより壕内は排泄物の臭いで満たされ、ノミ、ダニ、シラミ、ハエなども多く非常に不衛生で息苦しく過酷な状況での戦闘だったという。
壕が米軍に包囲され、武器弾薬の補充はなく壕内には重火器がなくなり、竹槍による突撃で応戦するのが精一杯になった。そして6月13日午前1時、大田實司令官は自決を遂げ、この壕の組織的な戦闘は集結します。そして8月15日に終戦となる。
終戦から8年後の1953年、戦争で生き残った元海軍隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し内部には泥水が溜まっている有様だったそうです。壕内からは大田實司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集され、1958年には更に1500名以上の遺骨が収集されました。







