沖縄の復興の始まりは器をつくることからであった。2023/08/12
沖縄戦の空襲では那覇の9割が壊滅的な被害にあったが、
沖縄で古くから窯場のあった壺屋地区は奇跡的に被害を免れ、
窯元の何か所かが登り窯とともに焼け残った。
沖縄の住民の人々は戦後すぐに米軍の収容所に押し込められ、
そこで不便な暮らしをしていたが徐々に解放されていく。
米軍から住民への食べ物の配給はあったが、しかし、食器がなかった。
町は焼け野原だったので器など無かったのだ。
戦後、沖縄の人々の器をまかなうため、米軍は壺屋地区を那覇でいち早く住民に開放。
焼きものをつくる陶工たちは戦争中、沖縄北部などに避難していたが、
1945年11月に約130人ほどの陶工たちが陶器製造産業先遣隊として壺屋に戻る。
この陶工のなかには、のちに人間国宝となる金城次郎(当時33歳ぐらい)もいたようだ。
器づくりとなる材料は、土は読谷村や恩納村付近、透明釉の材料となるもみ殻などは中北部、
薪はヤンバルから運んだようだ。
戦争の被害を奇跡的に免れた壺屋の登り窯を利用し、終戦の4ケ月後にはまた器づくりが始まり、
同時に町づくりの復興も始まる。
終戦後の沖縄の解放と復興は、古くから窯場のあった壺屋から始まり、
沖縄の復興の始まりは器をつくることからであった。
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